本当のことをいう・・・・・

 「愛」という言葉を 

 てらいもなく使えるようになったのは

 教会に通うようになってからだと思う

 それはそれでいいとして

 「愛」という言葉の真の中身を

 どんなふうに実践していけばいいのか

 一生懸命考え抜きながら

 教会に通い続け

 そこで 牧師のメッセージに必死に耳を傾け

 聖書を教えられた通り

 やっぱり一生懸命読んで 学んで

 5年の歳月が流れて行った

 そして 今思いなおしても

 愛するということは ただ 愛するということ

 順序どおり一つの階段を踏みながら

 思った通りになれなかったとしても

 愛する人は 愛する人だし

 誰 彼の区別はない

 「神」は無条件に人間を愛していると

 確かに聖書には そうあったと思う

 でも でも 人間はそうはいかない

 だれかれを区別し 区別した人には

 神の言葉に従わなかったと

 愛なんかとんでもないといって

 ついきのうまで 教会で

 隣り合わせに座っていた人を

 振り落としていく

 そればかりではない

 私の知人だったクリスチャンの女性は

 自分から 燃えるように一人の男性に恋をして

 さていよいよ 結婚するという段になって

 相手がクリスチャンでない事が不安になって

 自らは 教会の牧師を頼り

 相手の男性から身を隠すように

 その結婚を御破算にしてしまった

 結婚について 神の心に逆らえない・・と

 御心に従うのがクリスチャンの務めのはずです・・と

 その人は 確かそんなふうに私のも言っていたと思う

 愛するというのは 愛するということ

その中身を どんなふうに創りうるのか

 相手への思いの深さを

 どれほど 心にじんわりと

 確かめられ 持続させることができるのか

 神は その力量を試しているのだと

 私自身は つくづく思う

 今ごろ その人は何を思っているだろうか

 その人は 人との関わりをブツブツと切っていった

 わたしも その人が結婚しようとしていた男の人も

 おそらくは 家族も 

 その人は 真の関わりをもてぬまま

 毎週日曜になると 礼拝に行き

 神と出会うのだろうか・・・

 愛するということは 愛するということ

 聖書の どこそこに

 何が書いてあると 

 受験生の暗記モノのような口調で

 得意げに語ることはやめて

 愛するということは 

 ただ 愛するということ

 この究極の姿を

 どうやって見つけていくのか

 それは 人生のすべてをかけて

 自分に返ってくる言葉なのだ