2月22日(日)日記第二信

風呂に入っていると考え事をする。
それが言葉になって、少なくとも最初のセンテンスが浮かんでくる。
すると次々に文は連なって、これはもう後で文章にするしかないという状態になる。

私は洗礼を受けている。
もうずいぶん前のことだ。
あの頃、私は神の言葉を聞きたいと思って教会の門をたたいた。
それから程なくして、受洗する事になった。

それはいい。だがその後、色々なことがあって教会へ行かなくなった。
何より、イスラエルの誕生とその後の同国の戦勝は、
聖書の預言が成就したのだと牧師が語ったことが決定的だった。

それから、遅ればせながらパレスチナ問題にふれ、色々なことを学ぶことができた。
礼拝に通っていた頃のそのことを詳しくも知らなかった私でさえ、
当初から、牧師の話は正しくないと理解できた。

聖書を読まなくなった。祈りもしなくなった。
これ以上にないほどダメなクリスチャンになったが、
エスを信じることに変わりはない。

「愛」という問題。自分を愛するように隣り人を愛しなさいという聖書の言葉、
さらには「地の塩」という言葉が私をひきつけてやまない。

さて、定時制で仕事をして5年が経とうとしているが、
入学者がいるのか否かが危ぶまれ、自分自身が職場を追われるかもしれないという状況だ。
そんな時、私は心の中で、今後、神は私に何をしなさいと言っているのだろうかと、
必死に聞きとろうとしている。

だから、めずらしく時々祈っている。
人間のご都合主義だと怒られてもいい。
信仰を持つ以前から、自分の人生はいつも神が決めていたのだと思っている。
それほどに私の人生は特異で充実していた。
そんな自覚を容赦なくぶつけてこうして文章を綴っている。

ところで、その後「ちのしお」のように生きたいと言っていた私を
支えてくれた連れ合いが、素敵なプレゼントを贈ってくれたのだ。
名前入りの手作りの箸、そこには「ちのしお」と書かれている。
名入れをした箸作りの男性は「かみさんに贈る」と言った連れ合いの言葉を聞いて
私の名前を「ちのしお」?と思ったかもしれない。