風呂に入っていると考え事をする。
それが言葉になって、少なくとも最初のセンテンスが浮かんでくる。
すると次々に文は連なって、これはもう後で文章にするしかないという状態になる。
私は洗礼を受けている。
もうずいぶん前のことだ。
あの頃、私は神の言葉を聞きたいと思って教会の門をたたいた。
それから程なくして、受洗する事になった。
それはいい。だがその後、色々なことがあって教会へ行かなくなった。
何より、イスラエルの誕生とその後の同国の戦勝は、
聖書の預言が成就したのだと牧師が語ったことが決定的だった。
それから、遅ればせながらパレスチナ問題にふれ、色々なことを学ぶことができた。
礼拝に通っていた頃のそのことを詳しくも知らなかった私でさえ、
当初から、牧師の話は正しくないと理解できた。
聖書を読まなくなった。祈りもしなくなった。
これ以上にないほどダメなクリスチャンになったが、
イエスを信じることに変わりはない。
「愛」という問題。自分を愛するように隣り人を愛しなさいという聖書の言葉、
さらには「地の塩」という言葉が私をひきつけてやまない。
さて、定時制で仕事をして5年が経とうとしているが、
入学者がいるのか否かが危ぶまれ、自分自身が職場を追われるかもしれないという状況だ。
そんな時、私は心の中で、今後、神は私に何をしなさいと言っているのだろうかと、
必死に聞きとろうとしている。
だから、めずらしく時々祈っている。
人間のご都合主義だと怒られてもいい。
信仰を持つ以前から、自分の人生はいつも神が決めていたのだと思っている。
それほどに私の人生は特異で充実していた。
そんな自覚を容赦なくぶつけてこうして文章を綴っている。
ところで、その後「ちのしお」のように生きたいと言っていた私を
支えてくれた連れ合いが、素敵なプレゼントを贈ってくれたのだ。
名前入りの手作りの箸、そこには「ちのしお」と書かれている。
名入れをした箸作りの男性は「かみさんに贈る」と言った連れ合いの言葉を聞いて
私の名前を「ちのしお」?と思ったかもしれない。