ああ、早く寝ようとしたのに・・。

2月27日(金)
夜中の0時を2分過ぎてしまいました。ストーブは「コトコト」なっています。その上のやかんは「ひゅ、ひゅ、」っと音を出しています。
今日は昨日からの体調不良を抱えて、鍼に行ってきました。私の主治医の鍼医の先生の所には患者さんがたくさん来ていました。その数の多少は、先生の暮らしがかかっていますから、よかったなと思ってしまいました。
一回の治療費として2500円しかとらない先生なのです。それ以上はとりすぎだと思っているふしがあるのです。でも先生の腕は、どう考えてもいいのです。私の体調がこれまでずっと維持されてきたのは、やはりその鍼医の先生のおかげです。
それから今日は、校長先生と面談しました。人のよさそうな昔は生物の先生だった人です。でも、私とはまるで違う感性の人です。それはそれでいいのですが、それにしても、公務に携わってきた人は、本当によく似ています。
なにかこう、本音の所が見えないのです。ご本人は決してそうは思っていないようなのですが、「私はこう思っているから私はこうするつもりだ」とは決して言いません。そう何のことかといえば、私が現在の職場に居続けることができるか否かという話なのです。
私はもう5年間、半年区切りの講師の身分を継続されながら、一つの学校で仕事をし続けることができました。4月からも引き続いてその学校に勤めたいと希望を出していたのですが、決めるのは県の教育委員会だから、彼としては、私にそのまま留任してほしいけれども確かな約束はできないと、そう語っていたのです。
それを聞いた私は、「はい、わかりました」と答えました。校長先生には、最終的な決定を下す権限がないということなのです。教育現場の仕組みとして、人事権を握っているのは県の教育委員会なので、そこに決定をゆだねるしかないと、そういうことなのです。
上部から下部へと、下へ下へと権力がふるわれ、それが適切な決定であるか否かが問われる前に、そうした組織の事の進め方が自明のこととして、次々と現実のものとなっていくというのは決して珍しいことではありません。
しかしこと教育現場で、常日頃、少しでも教育の質を高めることが求められているとするなら、知的な積み重ねをどれほどしてきたのか、人間への理解がどれほどできるのか、そうした尺度をもって教師の質を測り、それに対応できる人間を確保しようとするのが校長の勤めではないのかと思うのです。
でもそういう考え方はないのだと思います。それは、今日私の目の前にいた校長一人に言えることではありません。公務員として、そういう考え方をしないのが普通なのです。そして、これこそが、日本社会の全てに通じている「常識」なのです。
安倍政権の現状の日本が、どうしようもない状況になってしまっている時、政治的な弾圧がいつ襲いかかるかもしれないと思っている今日この頃です。公務員こそは、あまりにわかりやすい構図のまま弾圧に加担していくようになっているのです。
それに抗って、自らの意思を公然化して生きようとすれば仕事を追われ、おそらく暮らしは色々な意味で苦境に立たされていくことでしょう。ここのところずっと「ひざまずいて生きるよりは、立ったままで死のうじゃないか」という、韓国の民主化闘争の頃の歌をメロディーと一緒に口ずさんでしまっています。
私が何を選んでいくのか。いや、クリスチャンの私には、何があっても神が何を私に選ばせようとしているのか、そっちの方だとは思いますが、とても重要な山場を迎えているのです。