長いメールのあて先は牧師でした・・・

今夜はちょっと淋しいのです。

なぜかといえば、メールの返事が来なかったからです。

子どものようことを言ってしまいましたが

メールの宛先は 一年前の二月まで五年間

私が通っていた教会の牧師でした。

さて 夏に一冊の本が出ました。

牧師を中心にして教会の人たちの労作です。

その本が出たことを知って

それからすぐ 本を買いました。

本は とてもよく仕上がっていました。

私が住んでいる地域が

殉教地であることから

ずっと以前から出版については聞いていたのですが

私が教会を離れてからは

出版の情報は入るはずもありませんでした。

それはいいのです。

私は ゆえあって 自分から

教会を離れたのですから

出版について 知らなくても当然のことです。

でも その本を読んで 

出版おめでとうございますと言いたかったから

素直に その通り 祝福の思いを送ったのでした。

その上に 家族の近況なども簡単に書き加えて

でも 今のところ 返事はないのです。

素直に 子どものように 淋しい思いです。

教会を離れた者に対する 教会の対応は

私の知る限り 多く こういう感じです。

色々なことが ありました。

信仰の本質に関わることとして

疑問になることも 山のようにありました。

でも それらに一つ一つ向き合っても

私自身は やっぱり言葉にして

疑問をぶつけることを避けてきてしまったのです。

だから 私の責任も免れません。

そして いよいよとなって

私は黙って教会を離れてしまったのですから

教会の牧師だけを

批判するつもりなどないのです。

ただ 「愛」ということを思いました。

「寛容」ということを思いました。

色々な人たちが 教会を訪れます。

色々な人たちが 最後に訪れる場所として

教会はあるのだと 私は思っています。

人為ではどうしようもないことに晒されながら

毎日を苦しみながら生きている人々にとって

必ず 行きつく場所としての「教会」

私自身は そう確信して

「教会」にたどり着いたのでした。

でも 「教会」の現実は違っていました。

私は 一人の教師です。

生徒から来た手紙を読んでいて

その返事を待っている生徒の姿を

想像せずにはいられません。

私など 俗世に生きる「先生」に過ぎませんが

人間の淋しさや悲しさは

自分のこととして

持ち続ける感性だけは 

何があっても 失えません。

それが私の仕事の要だからなのです。

ああでも 返事は遅れているのかもしれませんが・・・