「普通の暮らし」って何だろうと、そんなことを思っている。
それは何も不安のない平安な暮らしということか。
それがなかなか叶わなかったので、私はクリスチャンになった。
人間の弱いところや、人間のつながりの脆さに、
私がつぶれそうになったから、教会に通った。
そこで私は、イスラエルの建国神話を聞かされ
人間と教会の関わりに悩みながら、教会に行けなくなった。
そのうえ、その場で語られる「愛」という言葉が
私を納得させてくれなかった。
「愛」を語るには、いろいろなものが曖昧にされていて、
人一人が「若年性認知症」を患うに至るほどの
事態が起こっても、「愛」は都合よく解釈された。
さて、もういい。ただ、「言葉」について思う。
「言葉」の説得力、「言葉」の理解力への
大いなる不信が、今、私の心にはある。
「言葉」は人と人をつなぐものにはなりえないのかと、
今さらながら、私の中に静かな諦めの気持ちが立ち込めている。
もう終焉に向かって一歩一歩歩いている私の
最後の時間が、あとどれだけかわからないが、
「言葉」への無力感に、ただひたっている自分を
もう一人の自分が見つめている、日曜の昼下がりだ。