「文字を持つ」

 「文字を持つ」というと

 語呂が悪いような気がするけれど

 「言葉を持っている」とか「文字を持っている」

 とはいうから やっぱり 「文字を持つ」でもいいと思う。

 今から900年昔 鴨長明は『方丈記』を書いた。

 建暦2年(1212年)に60歳でこの本をまとめたと

 『方丈記」の奥書にはある。

 そうなると生まれたのは1153年(仁平3年)のことだ。

 それから3年後には保元の乱

 さらに3年経つと平治の乱が起り

 平清盛が権力を掌握していくから

 その少し前の 長明の出生は

 新たな時代の激動とともに始まったといえる。

 『方丈記』はまさに 長明が歩いた時代史だが

 とりわけ うちつづく天変地異を

 次々に描いていく長明の筆は 

 あまりに写実的で

 読む側の私を圧倒する。

 何が 私の心を揺さぶるのか。

 それは 長明の立ち位置が

 現代でいうルポライターそのままだから。

 実際には『方丈記』を書きまとめた時より

 35年ほど昔の京都の大火の話から始まって

 自分がその場にいなくては 

 到底描き出せないようなことを書き連ねてゆく。

 その記憶力の確かさもさることながら

 文字を持っていた人の 

 その巧みな文章力によって

 900年前の「天変地異」の凄まじさを

 わたしたちは 目の当たりにすることができるのだ。

 文字を持つことの意味を 再確認したい。

 それを使って書き遺された「古典」の

 あまりにも永い継承の足跡を 

 かみしめなくてはなるまいと思う。

 21世紀の、まさに今、天変地異こそは

 日本各地で人々の話題になっているはずである。