悲しみを怒りに・・・

目の前の理不尽を、理不尽と思わなくなっていく自分が、いるのかもしれない。

許しがたい人権侵害を、気が付いてみると時間だけは経ってしまって、

結局黙認してしまったという日々。

安倍が政権をとってから6年が経って、政治の腐敗は、それこそもう目を覆うばかり。

一国の総理大臣が、公然と嘘をつき、その嘘は誰もが認めるところなのに、

誰もどうすることもできないまま、嘘は、次々に重ねられて、

この国の劣化は、日々加速して、私等の知らないところで、

多くの人が死んでしまったか、死に瀕しているのだろうと思う。

それにもかかわらず、これまで私は、一体何をしていたのだろうと

ふりかえっても、いちいちその過程を思い出すこともできない。

今日わたしは、猛暑の中を、朝から特別支援教育の研修会に出席していた。

毎年開かれるその研修会に、もう何回も出席して、

相変わらず、同じレベルの議論が繰り返されている現実に心が折れた。

発達障害について、大学の准教授が、色々語った講演。

限られた時間に、自分の持っている知識を並べ立て、

いったい、何を目的に喋っているのだろうかと思うほど

つまらない、くだらない講演を聞いた。

そうだ、何がつまらなかったのかだ。

研修会のテーマは、相変わらず、障害を持つ子どもが、

障害を持たない子どもの社会へ、どのように参加していくのかという

問題提起でしかない。

日常的に、適応、不適応で、子どもたちが分断されていく。

不適応の状態に、色々な名前を付けて、

確信をもって、なおも子どもたちが分断されていく。

障害は社会的な所産だと、今日私は、改めて考えていた。

自分の仕事がら、多くの発達障害を抱えた子どもたちと付き合ってきて、

目の前の子どものことが、何一つわかっていない自分を知り、

その一方で、人間と人間のつながりの中で、子ども自身が、

どんどん変わっていくという現実も知っている。

人間が人間を(互いに)創り、人間が人間を(互いに)変えるという実際を

幾度も幾度も目の前にした。

そういうことが、バッサリと抜け落ちていた今日の研修会。

初めてこれに参加したのは、10年くらい前の事だったか。

あれから、なにひとつかわらないまま、

障害の状況や障害の程度は、このようになっているので、

子どもたちの「こまり感」を理解して、

教育していきましょうと、叫んでいるだけの研修会だった。

昨日、8月1日、重度障害をもった二人の国会議員が誕生して

この国が、慌ててしまっていることなど、話題にもならない研修会だったのだ。