泣きながら、生徒と話してしまう私でした。もちろん相手の生徒だって、泣いているのです。
いったいどんな光景だったかといえば、やっぱりこれも、人と人との「共感」の場面です。
「共感」というのは、相手の心の在り様を、自分の心に、その時その場で、
そっくりそのまま写し取ることができるということです。
話を聞かず、苛立つと、悪口雑言の限りを尽くすような生徒でしたが、
その子の、孤独で、小心な、凍てつくような心の状態がわかってしまう私には
わめき散らしておさまらない、その子の心に、ただ寄り添っていることが自然な対応でした。
なぜ、そうなったのかということが、まず重要なことであるなんて、いわれなくてもわかっています。
しかし、その子の前に立ちはだかった現実より先に、
その子の心の状況にこそ、私の関心は向くのです。
私と生徒との付き合いは、すべてがそこから始まるのです。
生きていくというのは、恐怖と不安の連続です。
そういう状況の中でこそ、できる限り優しい心根をもって生きることしか
恐怖と不安にしなやかに向き合っていく方法はありません。
優しさには、強靭な心の裏付けが必要です。
強そうにふるまっている人ほど、荒々しく、非寛容な心で、
その人の心の奥が、透けて見えるようです。
さてもう、いい年になった私が、取り留めもない文章を書いてしまいました。
それなりに永い時間、若者と一緒に生きてきた私が、自分を振り返ってみたくなったと
思ってくだされば幸いです。