新年を迎えて・・・

 2017年1月4日、これを綴る。明日で9日間の冬休みが終わる。あまりに永く休んでしまったので、6日には出勤するが、はたして仕事に戻れるだろうか。
 
 それでもこの間、考えることがたくさんあった。決して特別なことではなく、これまでだって、いつも、いつも考え続けてきた、どうやって生きていくのかということだ。

 昨年秋に、いよいよ65歳になって、これからどうやって、食いつないでいけるのかという問題も抱えてはいるが、何よりも、こんな絶望的な時代に、自分が、いや連れ合いと二人、どうやって向かい合っていけるのかが、最重要課題である。

 自国の政治を、自分たちの力で、変革していけない日本という国の、大勢迎合方の人々が醸し出している空気に、私や私の連れ合いが打ちのめされてしまっているのは、もうずいぶん前からのことである。

 それでも私の方は、定時制高校で若者と向き合いながら仕事をしているせいか、まず、相手を元気づけるというところから全てが始まってはいたが、この国の権力者の醜さと、それをカバーし続ける多くの日本人たちの状況が、ひどくなればなるほど、私自身も、どんどん自分の殻の中に、閉じこもってしまいそうなのである。
 
 しかし、新学期を控えて、そういう自分をリセットしなくてはいけないと思っている。私の仕事は、次の世代を担っていく若者に、語りかけることだ。
 
 これまで自分が学んできたことを思い起こし、より深めて、少しでも普遍化しながら、若者の心に伝えていくという仕事なのだ。
 
 老人になった私の時間は限られている。私の学びは、私という固有の存在を通して意識化され、普遍化されてきたのだから、今、私がしている仕事は、私にしかできない仕事であるはずだ。
 
 こんなふうに自分に言い聞かせながら、元気を回復しようと、私は、永い冬休みを過ごしていた。

 ところで私には、永い間、共に生きてきた連れ合いがいる。その連れ合いの思いもまた、実は私のそれと重なっているはずだ。
 
 人が人らしく、少しでも幸福に生きていけるようにと、折にふれて行動してきた私と連れ合いの生き方は、長い道のりだった。

 しかし、今、二人が老年になって、目の前に繰り広げられている現実は、私たちから、悉く「希望」というものを奪っていく。
 
 でも、でもやっぱり、負けてはいられまい。後に続く人たちがいる。連れ合いには、連れ合いにしかできない方法で、後ろからやってくる若者たちが歩くことができる道を、作っていってほしいのだ。

 心新たにしよう。私たちのような、老いた人々が、数百、数千と、微々たる力を、結び合わせることができるかもしれないのだ。
 
 組織なんかじゃなく、地の塩になろうと、一人、また一人が立ち上がっていけたら、目の前に、道は開かれていくような気がする。

 根拠のない楽観でもいい。それでも、かまわないから、あと少し、そんなには永くはないけれど、一緒に歩いていこう。

 そうだ、私は、連れ合いに、こうやって言葉を綴りながら、語り掛けてしまっているのだ。私たちの命の、最後の働きとして、さあ、明日を迎え撃っていこうよってね。