もうそれほど遠くない時期に、家族と一緒に、新しい生活のスタイルができるのではないかと、そんなことを想っている。
日当りのいい小さな家は、手作りの人形の家のようで、老いていく私と連れ合いには都合がいい間取り。
息子は別棟だが、そこもまたこじんまりしたものになるだろう。
各々が、余計なものは一切持たずに、生きるのに最低必要なものだけをもって
毎日を慎ましく、丁寧に生きていければ、それで十分だ。
食事は、ゆくゆくは二食か一食でいい。
少ない量でも、いろいろな種類のものを、できるなら食べていきたいと思う。
暮らしの一コマ一コマは、静かな心を脅かすようなものにはしない。
いずれやってくるはずの「死」を静かに受け入れることができるような暮らしを模索する。
そうしたことを原点にすれば、生きることはなんと貴重で、有意義なことだろうか。
静かに読書をして、静かに語り、静かに発信して、
人間を侵害するような、人間を踏みつぶすような、いかなる権力をも、決して黙認しない。
朗読をして、若者に古典を教え、要請があれば、あちらこちらで語り、
人間が、人間として大切にされる社会を目指して歩き続ける。
だが、現実には、こうした展開で、私の暮らしは展開されないだろう。
それでもいいのだ。私が自分を見失わずに、これから後の命を全うすることができるのなら
突然の死がやってきても、その瞬間まで、誠実に歩き続け、後悔のない一コマ一コマを終えることができるなら、
こうやって、私は自由に想像力をはたらかせながら、明日もまた、歩いていく。
それ以上の感謝はない。