(南の島通信)4

全く動きたくない。心も体もくたくたという感じだ。でも、その一方で、憂鬱というのでもないから、もうお昼になろうとするけれど、残りの時間は、有効に過ごせると思っている。
定時制高校に5年間在職したが、来年度も仕事をしていくことができるか否かは未定だ。私の都合ではなく、人事権を持つ教育委員会の決定一つで私の動向が決まる。
理由は色々考えられる。地域の過疎化がどんどん進み、学校が次々に廃校に追い込まれて、教諭が余り気味になるから、講師という身分の私の居場所がなくなっていくのは避けられないということだ。
それが妥当かどうかは、また別の問題としてある。教員採用試験の狭き門を通って教諭として採用された人間と、半年ごとに辞令が出る、講師という立場の私と、仕事上の評価が平等になされる等ということはあり得ないのだから、都合が生じれば、私はいつでも職場を去らなくてはならないということだ。
要は、生徒にとって一番良い状態で、教育実践が行われるということではない。仮に、より良い教育実践という理念が常に優先されていたら、職務上の身分などはいつだって流動的になり、その一方で、誠実な質の高い授業があちこちで繰り広げられながら、その学校ばかりではなく、地域の文化自体も、活性化して、その質も向上していくのではないかと思っている。
それにしても自分で勉強しない教師があまりにも多い。高校の教師の仕事は大学受験に導くことだけか。それならば、大学の入試問題を解くことに忙しい進学校の教師は、その意味で多忙なのだろうが、それは一方で、受験などにはほとんど無縁だと思われている定時制高校の教師には、進学指導がないから、おそらくは各自、何をしたらいいのかわからないのだろう。
生きるとはどういうことなのだろう。人間とはいったい、何者なのだろう。こうした原点の問いかけが、どうしても必要な仕事が教師なのだと思っている。もちろん、容易には答えが得られないものだが、そんな原点に引きもどされ続けたのが定時制での仕事だった。
出来るなら、4月からも働きたい。確実にこんな私を待っていてくれる生徒たちもいる。やりたい放題の生徒達の悲しみが少しでも理解できる私が在職する意味は大きいはずだ。