渡辺一夫を思い出す・・・

いく日か前から、私の頭の中でグルグル回っている言葉があった。「それが・・・であることと何の関係がるのか」というのがそれだった。
グルグル回ると言いながら「・・・」が不明だったのである。ただし、それがどこに書いてあったのかはもちろんわかっていたのだ。
渡辺一夫の「ユマニスト考」、いや実際は「ヒューマニズム考」というタイトルの講談社新書だった。奥付を見ると、初版は昭和48年10月、2刷めは昭和50年5月になっている。
私が連れ合いと一緒に暮らし始めた、まさにその頃、連れ合いの書棚にあったラブレーの著作「ガルガンチュアとパンタグリエル」にふれ、そこから渡辺一夫に出会ったのだった。
奥付の日付は、その頃とほとんど重なっていく。あの時、社会と真正面から向き合って、いくつもの挫折を繰り返し、左翼だの、右翼だのと、そうした枠組みの中で、敗北に敗北を重ねながら、それでは、どうするのか。
世の不公平とどう戦えるか、どうしたら、人間性を取り戻せるのか、迫害されるものの異議申し立てはどうなるのか、等など、開かれぬ扉を必死で開こうとしていた矢先のこと、渡辺一夫の言説は、心に深くしみいって、私の心をとらえて離さなかった。
その渡辺一夫が、今もう一度、私の心に蘇って来ている。実に40年ぶりのことだ。絶望的な日本の中で、しかも、教育現場に身を置いている状況の中で、事の本質からかけ離れたところで、ありとあらゆることが、まことしやかに語られ、それらが実行に移されて、悲劇は悲劇を呼びながら、「教育」といえるのか。
「本質」ということなのだ。まさに、それがキリストとなんの関係があるのか。原点としての「キリスト」とは無関係に、キリストが語られ、信仰の本質から、救いようのないほど乖離していく憂うべき現実を、ユマニストたちは「それがキリストと何の関係があるのか」と、問いかけ続けていたと、渡辺一夫はその著書で記している。
今の、この狂気の独裁政権下で、彼の著書が思いだされ、「それが・・と何の関係があるのか」という、歴史的な問いかけが、頭の中をぐるぐるぐるぐる回っていたのは、何とも腑に落ちることであった。
さあ、久々にすっかり色あせた 、この古くなってしまった講談社新書を読みなおそう。なんとも、こんなタイムリーな読書願望は、神が指示されたものかもしれないと、思ったりもしている。