夢か・・・

希望を捨てなければ どんなことでも 

いずれ 叶えることが できるだろうか

 

武器を持たない 一般の市民を 無差別に殺していくイスラエル軍

ふと気づいたら 戦うことをやめて ゆっくりと後退していく

 

ある町で そういう事が起こったと思ったら

隣の町でも 同じようなことが起こった

いったい イスラエル軍に 何がおこったのだろう

 

私は 夢でも見ているのだろうか

世界中のたくさんの人々が イスラエルに停戦を訴えていた

 

その願いが 殺人鬼のようなイスラエル兵の心を

粉々にしてしまったのだろうか

 

 

 

 

 

 

隣りにネコ

人生の修養が足りないせいなのかと思ったりする。

心が、あまりにも感じやすく、揺れに揺れて、

浮いたり沈んだり、そのたびに、心も体も疲れてしまう。

天草に家族でやって来て、もうじき33年が過ぎようとしている。

すごく永かったと思うけれど、その間に家族一人一人の大切な人生が刻まれていった。

そして今、私と連れ合いと息子は、何とか生きながらえて、

各々が互いに、静かで、温かくて、ゆっくりしたテンポで、

家族を包む空気を創り上げ、毎日を過ごしている。

そう、それから猫たちがいる。

家の中には、今、私の隣で寝ている「ミッケ」

外には、一番小さな「チャカ」と片っ方の耳が白い「ミーシャ」

しっぽの先が曲がっている「マーシャ」と甘えんぼの「ハーシャ」

それから、赤白の「アカ」、総数六匹。

 

 

春を迎える

昨日も今日も、とんでもない寒さだったのに

何を見当違いな「題」を付けているのかなと

自分でも感じている。

でも なぜか「春を迎える」というのが

今の私の 心境なのだ。

新年が始まって イスラエルによって パレスチナの人々が 

次々に殺されている状況が ますますひどくなっていること

能登半島地震の被災地の状況が なかなか改善されていないことなど

命が傷つき 命が失われることが連続している社会に暮らして

特に今年に入ってからは 私の体調は がたがたになっていた。

その一方で しかし もうここまで来たら 私のやることは

はっきりしているんじゃないか。

そんな 妄想にも似た思いが 私の心にふつふつと湧いてきている。

これまで私は じっと閉じこもっていたような気がする。

いったい私は 何を恐れて 何を 躊躇っていたのだろう。

その原因は 老いなのかな。

老いていくことが これから どうやって 自分が生きていけるのか 

という不安につながっていたのかもしれない。

問われていたのは 私の勇気だったということなのか。

春は 必ずやって来る。

その春を 私は思い切り 胸襟を開いて迎えたい。

そうして やっぱり 私がやれることは 身も心も弱っている人に

生きていきましょうと 根気よく話しかけていくこと。

あくまでも あなたはあなたらしく 自分を思い切り肯定して 

何とか生き抜いていきましょうと 話しかけること。

それ以外のことは 全く思いつかないのだ。

 

 

 

 

 

 

曇り時々雨

九州熊本の そこから海を渡った いくつかの島の その一つに暮らす。

都会に比べたら それはもう人口は少ないし 

今 世の中で何が起きているのかなど すぐには分からない毎日だ。

そこで 朝な夕な パソコンを開いて インターネットを起動させる。

そうやって 色々検索していくと 何だか わかったような 

何一つわからないような 妙な気持ちに陥ってしまう。

ただ 確かに世の中は 暗転している。

1月1日には 能登半島で大地震があって 

10年以上前に定時制高校で一緒に働いた先生が 被災して亡くなっていた。

物静かな優しい先生で 弱い立場の生徒に対する深い思いは

誰よりも強い人だったと思う。

それ以前にも 昨年10月初めから いっそう激しくなった

イスラエルの パレスチナの人々に対する大量虐殺。

一方で 国内に目を向ければ 日本の国家権力の腐敗と驕りは極まっている。

その状況を変革できない 日本人の愚かさと弱さを実感するが

もちろん その一人が私自身だ。

このままでいいなんて思ってはいない。

10年とか 20年とか 30年とか 

あるいは それ以上の年月をかけて 

教育され 培われてきた日本人の 強いものには逆らわないという風潮が

現在の状況を生み出していると思う。

一方で イスラエルによる蛮行も同じなのだ。

70年以上昔から あらゆる手を使って先住民を負い出し

そこに「イスラエル国」を打ち立てようと計画され 実行されてきた。

いずれも 長い時間をかけて なされてきた暴力に対して 

決して諦めないで その状況を 正面から見つめなくてはいけないと思っている。

何とか自分の心を奮い立たせて 不正と暴力に対して闘いを挑みたい。

老いていることを言い訳にするなと 自分に語り掛ける。

私に残された時間を少しでも 誠実な人間として生きていきたいのだ。

今日は 曇り空、時々小雨が降っている。

 

 

 

 

正法眼蔵

正法眼蔵』という本を 本箱から見つけて少し読んだ。

それは昨日のことだ。

丁寧な口語訳に助けられたので苦労はなかったけれど 

何とも奥が深くて引き込まれていく。

この続きを読みたくなったから 机の上に置いておくつもりだ。

明日も、明後日も少しずつ読み進んでいく。

道元禅師の言葉を 弟子ができる限りそのまま書き取っていったものだという。

正法眼蔵』は 今の私が求めていた 最初の「本」かなという気がしている。

 

 

 

歩き出す

引き籠っていた。

寒いということもあったけれど

日本でも 世界でも悲惨なことがありすぎて 心が沈んで立ち上がれなかった。

これじゃあ だめだ。 

そんな叫びが 身体の不調で 聞こえてきた。

当然のことだった。

一日中 家から出ないで 本を読んだり 何か書いていたり

ほとんど体を動かさないで じっとしていたのだから

身体だって 悲鳴を上げるに決まっている。

昨日も 今日も 身体は生きていて

血液が隅々まで流れて それで 命はつながっているのに。

私は 私のやるべきことを やるために   

また歩き出さなくてはいけない。

生かされていることを 忘れてはだめなのだ。

落ち込んでいる場合じゃない。

パレスチナを思い 能登地震の被災地を思い

生きる場を失った人たちを思って

また歩き出す。

考える

考えるから ダメなのだと思う

考えれば 理不尽なことばかりに突き当たって 悲しみが深まる

そうなることが わかっているのに 考えることを止められない

だから いつまでたっても 悲しみの中から抜け出せない

考えるというのは 止めようと思って止められるものなのか

私が私であるかぎり 考えることは 止められない

止められないから また考える

悲しみのもとは 人の命が失われること

イスラエルによる パレスチナ人の大量虐殺

それを 今すぐにでも止めることができない世界と 無力な自分

1月1日に起きた北陸の大地震

そこで亡くなった多くの人々と 今この時も 避難先で苦闘する人々