さあ、眠ります。

明日また、目を覚まして、働きに行くために、さあ、眠ります。

働くことは、家族みんなが、少しでも暮らしが立つために大切です。

時々、くたびれたなって思いますが、それでも、家族が一緒に、

何とか、今日を生き抜けたと思えることは、幸せなことです。

でも、こうしたささやかな幸せさえ、この国に生きている多くの人々が

失いそうになっています。

汚辱にまみれた、とんでもなく犯罪的な政権が、

相変わらず、続いているからです。

こんな政権を、今すぐにでも退陣させたい。

それが、できないままの現状に、憂鬱になりながら、

今日の夕方、黒々とした雲が、空を覆っているのを、見上げていました。

さあ、心が折れないで、明日また、生きていくために眠ろうと思います。

寒い

昼と夜の温度差が激しい。

いや、朝早い時間も、やっぱり夜のように寒い。

これが、体調を崩すことにつながる。

寒さは、弱い立場の生き物には辛い。

寒さをしのげる場所がなければ、死んでいくしかないからだ。

そのことを考えると、何となく悲しくなる。

少し前から、家の近くに来て、お腹がすくと、泣きながら御飯を要求して、

結局、朝晩の食事にあり付けることになっていた三毛猫の来訪が、間遠になっている。

今夜の大食家の三毛猫の夕食は、出汁をとったあとの手羽先だった。

それを持って庭に出てみたが、三毛の姿は見当たらない。

今夜は、特に寒い。

三毛がどこにいるのか、気になって仕方がない。

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人間を育てるって・・・

 

今、私は数十年ぶりに、中学校で働いています。

職種は「補助教員」。情緒障害学級に所属し、

生徒たちが、通常学級に授業を受けに行く時に付き添い、

彼らを援助する仕事を5月頃から、やっているのです。

そんなわけで、一日5時間程の中学校の授業を体験しながら、

私は、今日まで、5か月余りを過ごしてきたのですが、

色々、考えさせられました。

少し雑な言い方になりますけれど、

まず、中学生の多くは、何とも幼いのです。

中学校の三年間を終了すれば、義務教育は終了して、

卒業したら、独り立ちすることだってできる。

でも、よほどの事情がない限り、義務教育が終わってすぐに

社会に出て、労働者になろうという子は、いないと思います。

だからなのでしょうか、三年間で、学校教育を完結させ、

自立して生きていくことができる、バランスの取れた人格を

育てる必要はないと思われているようです。

あと3年、あるいは4年、高等学校があり、

さらにその次には、諸々の専修学校や、大学があって、

そして、やっと学業を終えて、社会に出ていくことで、

初めて人間が自立するのだと、ほとんどの人が、

そういう理解をしているので、中学生にとって、

「自立」など、まだ、ずっとずっと先のことになるわけです。

冒頭に書いたように、中学生のあまりの幼さは、

当然と言えば、当然ですね。

 

 

 

 

 

 

 

昨夜 また腰痛

体温が低いというのは、私の特質のようなもの。

それに見舞われると、もう、どうしようもなくしんどい。

真冬に冷蔵庫の中に、入りこんでしまったというのは、

こういう感じだろうか。

基本的に、生命力がないのかもしれない。

それでも、このままではだめだなと思うので、

夜勤に行く息子と食べる「うどん」を作って、二人で食べた。

コロッケと、稲荷寿司のパックを、彼の夜食のために持たせて、

さあ、やっぱり「元気を出そう」と、独り言を言っている。

 

 

もうすぐ誕生日

手のひらを見ると、ああ、私はもう老人だなと、しみじみそんなことを思う。

皺が寄って、手の皮も薄くなって、私の手は、私の命を刻んできた。

この手で、いろんなことをしてきたな。

我が子を抱いて、我が子を育てて、この手は、次々に働いてくれた。

これまでの仕事のほとんどは、ペンをもって、色々書いたりしてきたから、

そこでもまた、たくさんの仕事をしてくれたなと思う。

そうだ、ペンの後は、パソコンのキーボードを打つこと。

だから、左右の手の十本の指が、キーボードの上を、しゃかしゃかと動いてくれた。

それからまた、黒板にチョークで字を書くのも仕事だったから、

手の先が、チョークの粉で、白かったり、赤かったりしたこともあった。

思い出せば、まだまだあって、数えきれない。

でも何より、私の手は、連れ合いの手をしっかりと握って、

今日まで、歩いてきたように思う。

その始まりは、40年以上も昔のことになるな。

ああ、忘れてはいけない。

政治的な主張をするために、大きなデモの隊列にいたことを。

あの時も、私の手は、隣に並んだ仲間の手を、しっかりと握っていたんだ。

 

 

丁寧な日本語を

一語一語、少しでも、丁寧な日本語を話したり、書いたりしたい。

思えば、言葉が等閑になった時、心も荒んでいる。

だから、言葉を丁寧に、誠実に使おうと思う

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「言葉」とは、話し言葉と書き言葉。

心の中に浮かんだ言葉を、何度も何度も吟味して、発信する言葉のことだ。

上滑りな言葉遣いは、柔らかく響かせても、人の心を傷つける。

分別のない、暴力的で激しい言葉遣いは、より強い威力で、人の心を粉々にする。

言葉は、自分と他者をつなぐ、唯一の、貴重な回路。

目の前の他者を、意識することなく使う言葉は、その人の尊厳を傷つける。

だから私は、丁寧な日本語を、意識して使おうと思っている。

丁寧な言葉遣いは、目の前の他者への深い思いが前提となる。

そればかりか、丁寧な言葉遣いの連続によって、

目の前の他者への思いが、いっそう深まっていくことも、疑わない。

なんだか、今日は、疲れてしまった。

年をとって、いつ終わるかもしれない人生の中で、

丁寧な言葉遣い、深い心で発する言葉遣いを意識しながら、

人間らしい終わりを、迎えたいなと思っている。

 

 

 

 

 

 

秋深まり

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朝と晩は寒いのに、昼は暑いのです。これでは体調不良にもなります。

そういう中で、我が愛する連れ合いは、

先週の土曜日、10月26日に入院して、

昨日退院してきました。

風邪をひきかけていたところに、高齢の母の世話などが重なって、

疲れていたのです。

それでおなかを壊し、いく日か経つと、今度は下血をしてしまったのです。

診断名は、「出血性腸炎」とのことでした。

朝の壁が傷ついて、剥離してしまったというのが、

お医者さんからの説明でした。

病院嫌いの連れ合いが、病院へ行く機会が増えて、

いろんなことを学び、それを私も引き受けます。

人間は、弱い弱い存在で、人の手では決して作ることができない

精密機械のようなもの。

そのことが、なかなか理解できなかった連れ合いが、

年を重ねて、名実ともに、少しずつでも、認識していく姿を

傍らで見守りながら、二人で歩いてきた長い年月を思いました。

 

あ、それから、野イチゴは裏の山で、見つけました。

一方で、三毛猫は、御飯時になるとやって来るのでした。