知性、そして怒り・・・

「肌感覚としての怒りを思い出せ」

その言葉が、ここ一月ほどの間

頭の中を、ぐるぐるめぐっている。

肌感覚としての怒りが、鈍っているということは

わたしの感度そのものが鈍っているということ。

鈍った原因を考えてみると、

まず生活に追われ続けていること。

怒りの爆発によって、私が生きている生活基盤は

事実上奪われるからだ。

それから諦め。

違法行為を犯しても、権力は相変わらず権力の座に居座り続け、

それを支持し続ける人々が、少なからずいるという日本という国。

私の怒りが正当だと思い、何度も何度も、

あくまでも合法的に主張してきたが、

そうした社会の中で、すっかり萎え切ってしまっていた。

ところで、怒りを怒りとして爆発させ、それを静かに表明して

闘いの姿勢を示すには、「知性」が必要なのか。

そういった人がいる。

果たしてそうなのかと思っている。

「知性」のない人が、ある事態に直面して、

これは、人間を踏みつけている行為だと、

だから、これ以上は許すわけにはいかないと、

だから、自分なりの行動を起こそうと、

そういう展開は、本当に起こりえないか。

もし、闘うためには「知性」が必要だとするならば、

国が変革されることなど決してあるまい。

今も、これからも、何ほどの変革だって、おぼつかないだろう。

もちろん「知性」とは何かという問題も問われはするが、

「知性」を持ち合わせていない人は、大勢いるはずだからだ。

それにしても、日々労働に明け暮れて、精一杯生きている人たちに、

自らが蹂躙されていることを、どうしても認識してもらい、

そのことを学んでいく場を、「共有」していこうと、

必死で働いた経験が、私にはある。

それは定時制高校にいた8年間のことだ。

特別なことではない。

これこそはまさしく、私の国語教育。

ひたすら言葉を増やし、それらを自分のものにして、

自分の思いを深めていく試みだった。