「高齢者」の人権について学ぶ機会を得た。
やがて66歳になろうとするのに、あまりに無自覚なまま、
すでに私は、「高齢者」としての暮らしをほぼ一年、過ごしていたのだ。
そんな私が、「高齢者」の人権侵害の実態を改めて知ることになり、
心は重くなるばかりだ。
こうした感情は、明らかにこれまで経験したものとは異質なものだ。
それは、人権侵害に対する怒りとか、懸念とかいうよりも、
わが身を切られるような不安と恐怖そのものといった方がいい。
人が老いていくのは、どうすることもできない。
それが自分の身近なものとなった今、
人権を侵され側としての高齢者の自分を、強く意識することになったからだ。
それにしても、これまで人権について様々に学んできたはずなのに、
私の人権感覚は、なんと鈍いものであったことか。
人権侵害のすべてが、やる側と、やられる側に分かれ、
そのようなあらゆる状況に対して「否」を唱えていたはずの自分が、
自らが「高齢者」となって初めて
やられる側の不安と恐怖を、これほどに強く感じているのだ。
だがしかし、人権侵害に正面から向きあっていく原点とは、
今私が立っているところなのかもしれない。