生きるということ

肝臓病の猫になってしまった我が家の「与作」。

もう2週間以上、元気にはなれずにいるが、家族同然の「与作」を

見捨てることなど、もちろん、できない。

知り合いの腕のいい老獣医さんが、見守ってくれているので

いますぐ、どうということはないから、付き合っていこうと思う。

さてしかし、彼の好意でずいぶん安くしてくれてるとはいえ

治療費は、一カ月に二万近くになった。

でも、大丈夫、そもそも確たる裏付けなどない人生で

現実的な裏付けなどない生き方をしてきた私は、それによって

一人でずいぶんと苦しんでも来たが、この年にまでなると

そう生きながら、二人の子を育て、ある生き方の核心のようなものに

たどり着いていることを、実感している。

そうだ、定時制をやめようと思う、その決心がついた。

少数派の私だが、心許せる友人も、それなりにいる。

その友人たちの、ネットワークを使って、定時制の後の仕事を

探すことを決めたのだ。

高齢の私が、仕事を探す難しさは、当然のことだが、

もう、それほどの時間があるとは思えない私が、とるべき道を決めたのだ。

などと、粋がってもいないが、もう、限界にきている。

公務員の片隅に籍を置き、若者と一緒に、若者たちは私に

言葉に表せないほど、たくさんの喜びをくれたが、

そればかりでは、目の前の若者の命は守れない。

一人の生徒の、命に係わる事柄が浮上して、その重大さを

何度も指摘したが、取り上げられないという状況だ。

いや、でも、まだ間に合う。それは当事者が変わり、

その当事者の傍らで仕事をする、私以外の教師たちが真剣になればいい。

早く、そうしてもらいたい。

私は、もう何度も問題提起をしてきたのだから、

さて、今度は、私が、自分の人生の終わりの部分で、

限られた時間の中で、もっともっと喜びに満ちた生き方をしよう。

・・・と決意しなくては、私自身が、つぶれてしまう。

ああ、なんてことだ、すっかり忘れていたのか。

私はクリスチャンだった。神に委ねよう。

今さら神が聞いてくれるか否かは

わからないが、私は、家族と一緒に、

歩けるところまで歩いていくつもりだ。

校長は、私を慰留するだろうが、私は、最後の仕事先で、

若者と、生きるということについて、私の授業をしようと思っている。

どうか、このクリスチャン失格の私に、そういう場を与えてください。

神様・・・。

そうだ、自分にも言い聞かせるつもりで、断っておきたい。

私は長い間、家族の暮らしを支えるために、

「現実的な生き方」に徹してきたということを、

今さらながら、再確認しておきたい・・。