猛暑の中で思うこと

 もう幾日も、ほとんど雨が降っていない。

 猛暑日が、どれほど続いたことだろうか。

 暑い、ともかく暑い。

 知的障害をもつ19人の方々が、無残にも殺されてしまってから一週間になったか。

 悪夢のような凄惨な事件だった。

 犯人の26歳の若者が、障害者は生きていてはいけないと、そう思って決行した。

 深夜、施設に侵入して、次々に刺し殺していった。

 19名の犠牲になった方々に心からお悔やみ申し上げたい。

 お顔もわからず、お名前もわからないまま、19名の方々の生きてこられた道のりを思うと涙があふれる。

 殺人という蛮行を犯しながら、自らの行為が正当であると主張する加害者の青年。

 極まった独善によって、被害者を恐怖のどん底に陥れ、そして絶命させていった。

 幸い、何とか死に至らずにすんだ方々もいたが、心に残された傷は癒えることはないはずだ。

 「障害者は生きていてもしょうがない」という思いにかられた犯行だったという。

 一人の人間が、別のある人間が生きていることを真っ向から否定して、抹殺してしまったのだ。

 自分ではない、他の人の命を、生きている価値がないと一方的に思い込み、刺し殺すという恐るべき現実が起ってしまったのだ。

 こういう事態に直面して、様々な分野の人々が、各々の見解を述べているのを耳にする。

 いろいろな思い方があるものだと思ったりもするが、私が何より思うのは、

 人間が人間を、虫けらのように踏みつぶして殺害したことの恐ろしさだ。

 この世に生を受けて生まれでたことの、何ものにも代えがたい重さは、それ自体が、無条件の尊さなのだと断言する。

 そうした認識、そうした実感が、その命への慈しみ生み、だから、人間は子どもを育てることができるのだと思う。

 いろいろな葛藤はもちろんあって、その生まれ出た命とともに歩く道のりが長く長く続き、

 時折りの、怒りや憎しみを上回る子への愛情が、時と共に膨らんでいくのだ。

 人間の生にとって、誰かが見守っていてくれる。誰かが、気遣っていてくれる。

 そうした確信が、人を安堵させて、生きていくための力になることを忘れてはいけない。

 加害者の青年の中に、すっぽりと抜け落ちていたものを思ってみた。

 この世に生まれ落ちて、温かく見守られ、育まれてくることが、絶望的になかったのだろうと思う。

 知的障害があるから生きている価値がないって、実は、それは、加害者の青年に突き付けられていた言葉ではなかったのか。

 自ら、生きる価値がないと否定され、拒否されてきた、これまでの人生があったのではないか。

 仮にそう、言葉に出されなくても、その内実は、生きる価値を否定していたのではないのか。

 その一方で、似たような生きざまを、知らぬ間に強いられてきた青年たちが、少なくないのではないかと思う。

 それが、加害者に共鳴する、これまた少なくない青年のメッセージにつながっている。

 枯れ果てた荒野のような内面の、孤独な青年たちを作り出し、

 その青年たちを利用して暴力的な政治的な状況を作っていこうという権力の意図を、絶対に黙認することはできない。

 この国は、もう取り返しのつかない状況に立ち至ってしまった。