世界で唯一の自分を・・・

最高の子育てとか、完全な子育てなんていって、
誰かが太鼓判を押してくれるようなものがあるとは思えない。
親子(いやこれは血縁か否かは関係ないけれどね)って、
そのつどそのつど、必死に真正面から向き合って「生きていこうね」って
言い続けているそんな連続なのだ。
そういうことだから、どうしても当事者しかわからないことがあるという気がする。
いろんな生き方の子がいる。
よく、歴史の流れに対して「もしもあの時に・・」という言葉が
あまり意味を持たないというけれど、全く同意だ。
子育ても同じこと。いろんないきさつがあって、子は育ち、今、目の前にいる。
そのことに深い意味があるのだと思う。
生きて、今そこにいるということが、どれほどすごいことなのかを、
子育てを通して知ることができたことが、私の人生の最高の収穫だった。
気丈な子と、気弱な子、旺盛な生活力の子と、なかなかそうはいかない子、
優しさにあふれた子と、とげとげしくなってしまう子等など、
これらは皆、善し悪しの判断の前に、人間の特性なのだと思う。
もちろん、荒れ狂うような精神の子に、際立った甘えん坊の子に育てたいと、
最初から思ったりする親などいるとは思えない。
拙い経験からしかいえないが、子どもを愛し抜くことが、最上だと思っている。
これしかないという思いはいまや確信になっている。
こんなことをいうと、甘やかしだと批判が来そうだが、それは次元の違う話だ。
なにより、生きることの意味を自問自答しながら63年を過ごし、
自分なりの結論を得て今にいたる。
この過程の中に子育てがある以上、生きることの大変さを思い浮かべる想像力は豊かにある。
だから、私にとって、子を愛し抜くというのは、
何があっても、どんな形でも、生き抜けという子へのメッセージを
発信し続けるということに他ならない。
人が生きるというのと同様に、子が育つというのも、全く固有の特質をもっている。
だからこそ、貴重なのだ。
我が子の生きざまをも含め、多くの若者と向き合う仕事をさせてもらいながら、
大人がわかりやすいと思う生き方ができない若者に対しては、
その存在そのものが、愛おしくてたまらないと思っている。
いろんな若者の、いろんな子の、いろんな人の、いろんな在り様があって当然だろう。
それはそれとして認めあえる社会になったら、いじめなどあり得ない。
そこで思う。決して自己否定などせず、生きていこうな。生き抜くよ。
なにより周りの人(これも血縁とかじゃなく)を、やっぱり愛して、
その速度はまちまちでいいから、生きる、それだけだ。
この国の価値観に沿って生きるなんて思わず、
いろんな人間の一人として生きていこうぜ。
もうじき、仕事が再開。いつも、こんなこと表に出さずにいたが、たまにはやろうと思った。
私の根底には、もう永い間、こういう信念があって、
自分の道を歩いて来たってこと、すべてはここが原点だっていうことを、
しゃべってみたくなったのだ。