1421年というのは・・・・

 2012年の今日から振り返ると、応永28年、つまり1421年は591年前ということになる。この時、世阿弥元清は59歳、『二曲三体人形図』を書いている。
 
 昨夜、『二曲三体人形図』という題名の世阿弥の能芸論を、久々に読んだ。難しい。学生のころは、わかったのだろうか。卒論を読み返してみると、ここからの引用が、全体の論の展開に深く関わっている。

 きっと、わかったと思ったのだろう。そして、自信を持って引用したに違いない。でも、昨夜『二曲三体人形図』をよく読み直してみると、ずっと昔の、卒論時の読み方は、かなりいい加減だったなと反省してしまった。

 世阿弥は能の大成者として知られている。今でこそ、能は古典芸能として尊ばれるが、当時はかなり日常的に演じられた「芝居」だった。

 その芝居の役者で、脚本家で、劇団の代表者だった世阿弥が、一人の演技指導者として『二曲三体人形図』を書いている。

 そこには、子どもが舞う姿が描かれていたり、老人が舞う姿、いやその前には、老人の立ち居振る舞いをより正確に表すために、老人の裸絵が描かれていたりする。

 その他にも、女性の姿、武者の姿、鬼の姿など、当時の演能の主人公達の姿絵があって、それらに説明がついているのである。

 一つ一つ図解入りで、これこれの役を演じる時には、こうしたらいいのだと教えてくれるのが『二曲三体人形図』である。

 世阿弥が、なぜ、こういうものを著したのかと、次のような序説を書いている。「・・・見体 目前に有らざれば、その風、証見し難きによって、人形の絵図に移し、髄体を露はすなり。・・・」

 「いい演技はね、こうやってするものだ」と何度も繰り返して、後進の指導をしてきた世阿弥が、「百聞は一見に如かず」と、絵入りの演技指導書を書いてくれたというわけなのだ。

 そういう芸論が、今から591年前に書かれているということを、何度も思い返しているところである。

 良い舞台を見せたいのだから、良い俳優を育成しなくてはならないと、あつい思いに突き動かされながら『二曲三体人形図』を書いたすぐれた演技指導者世阿弥の情熱を、なぜか不思議なほど身近に感じてしまったのである。