(クリスマスイブに考えたこと)2012年12月24日

今夜はクリスマスイブ、教会へ行ってイエスの誕生をお祝いしようと思ったけれど、行かなかった。かつて教会はずっと心の拠り所だった。教会へ行くと 主イエスに会えるような気がした。だから毎週日曜日には礼拝に出かけていき、自分の心を開いて、そこに入って来てくれる主イエスとひと時を過ごすことができることを楽しんだ。
この時の平安は例えようもない。疲れ切った体も心も、ほとんど癒されて静かで安心した思いに満たされる。心を開くというのは、心の緊張が解けて、心が思い切りほぐれる状態をいう。この状態によって、かなりはっきりと、心の疲れがとれてゆくのを感じた。主への祈りは、そのまま主への問いかけだった。
そうしてさらに思うのだ。2000年前、十字架に磔にされたイエスキリストのことを。磔になったのは午前9時、その後6時間たって、イエスは絶命する。その間のイエスの無残な姿を見守り続け、決して目を逸らさなかったのはイエスを慕い、イエスに救われた幾人もの女たちだ。その時すでに、イエスの弟子たちが悉く逃げてしまっていたのは恐怖心からだったという。
それにしても、主イエスからの何よりの贈り物は心の平安だ。これを主からもらい、本当の意味で自分のものになったら怖いものなどないと思う。ともかく心の平安は心を波立たせない。だからといって、感性が鈍るわけではないし、怒りを忘れるわけでもない。
むしろ心が平安な分、ものごとを鋭くとらえ、心は静かにゆっくりと大きく反応してくれる。その一方で怒りといえば、例えば、人が殺され、人が傷つけられ、人が人として生きることを阻まれることに対して、怒りの炎は心の奥の方からめらめらと燃え始める。だが、心は動揺しない。
さて、そういう私は、かつてクリスチャンとして教会へ通っていたが、ある時から、教会へ通わなくなった。教会へ行くと淋しくなった。教会へ行くと荒涼とした心になった。それで行くのをやめてしまったが後悔はしていない。
もちろん、教会へ行かなくなったからといって、私の信仰は捨てられたわけではない。私は、この世の日常の中で、キリスト教信仰の核心のようなものが、知らぬ間に私自身の中で育っているような気がしている。この実感は、最近になって少しずつ強くなっている。
人が為せることの限界、そんなことは自明のことだ。こうして偉そうに綴ってきてしまったが、弱さの典型のような自分の姿を思うと、恥ずかしくて赤面するしかない。でも、そこを安心して肯定できるようになって初めて、私は人として素直に生きることができる。
この支え手として、私は主イエスキリストを選んだのだ。この役割は人間にはできない。だから主に委ねることを決めたのである。それが私の信仰の原点である。