また夜更け・・・猫は走る

自分は政治的ではなかったとつくづく思う。ここまでこの国がガタガタになっている時に、しかも老年を迎えた年の瀬に、思いもかけない再認識をしたものだ。明日は衆議院選挙の投票日。
東京の秋葉原では自民党選挙カーが最後の訴えをしに来て、そこは日の丸で埋め尽くされ、反自民の人達や、自民に関わらない人達に対しての怒号が静まらなかったという画像情報をツィッターで入手。
実際のところ、九州の西のはずれの島に暮らしながら、夕食もすんで自室でパソコンを開いているのに、たった今自分が、秋葉原に到着して、その現場に居合わせているかのような錯覚に陥っている。
 阿部総裁が指導者になった自民党の姿は、「恐ろしい」などというよりは、何とも幼稚で単純でその意味では分かりやすいが不可解この上ない。
特に「日本をとりもどす」というスローガンは、何かを失ったから取り戻すという解釈でよいのなら、戦後の永い年月、ほぼ単独で政権を担当していた自民党自らが、日本はダメになったからと人のせいのようにいってしまうことは理屈として成り立たないし、日の丸を持って集まった支援者には抵抗がないのだろうか。
その一方で、鈴木宗雄と小沢一郎、今日、同じ日に二人の主張をやはりインターネットで聞くことができた。
とくに二人の事は卓越した政治家で、そのためにこの国の権力筋から徹底的に排除され、刑事被告人にまでされてしまったという多くの人の声を、ずっと後になってから私自身も聞くことになった。
今夜のように、明日はこの国の行方を決める国政選挙というときに、そんな二人の主張を、各々聴きながら、各自の生涯をかけての政治との向き合い方というようなものが、驚くほどこちらに伝わってきたのだ。
それは、政治が時々刻々変化する国際情勢や社会情勢に連動して、その一瞬一瞬、修正を余儀なくされながら、それでも、自らが信じる方向へと進んできたということ。
さらにそうした現場を生き抜きながら、政治という荒馬を調教することが、自分の使命だといわんばかりの自信をみせたこと。
こういうスタイルは、二人に共通していると思う。たった一度や二度の機会に彼らの主張を聞いたからといって、結論めいたことはいえないとも思うが、数えきれない実践の場を経て、なお政治家としての自分の道を行くぞと、静かにアピールする姿は、存在感そのものだ。
その一方で、自分を振り返ってみた。若い頃から、政治運動にも市民運動にも関わり、この国のこと、世界のことなど、常日頃から、自分なりに、真面目に向き合ってきたとは思っていたが、何かが足りなかったと思うことがしばしばだった。
もちろん、政治との向き合い方は色々あっていいと思う。だが、「原理原則」が特化して自分を規定していくかぎり、政治変革は起こり得ないと、今夜それは確信となった。