蒸し暑さ二日目

2012年9月2日(土)晴れ 相変わらず暑い
連れ合いと息子はおばあちゃんの家にゆく。
息子は買い物、連れ合いは裏山に行って竹の伐採とか・・。
一人 洗濯機を回しながら、朝食をとり、その後、こうして文字を打っている。
疲れをイメージ化することは容易だ。絵心があったら、一枚の作品になりそう・・。
体中に分散した疲れを、それこそ肺にひとまとめにして、ふーっと吐き出してしまうことができるような気がする。
そうすれば、元気になれそうだ。このイメージはとても大事・・。
困ってしまうのは、体内のどこへやらに、こまごまと分かれて張り付くようになってしまうこと、これらをともかくいったん、纏めて外界へ出してしまう手立てをこうじること。
ふっと、次のような言葉が浮かんできた?
男女は真の意味で「平等」になりうるか・・。
それを考えるには、まず「平等」の定義が必要になる。
互いに自己を貫けることであり、その過程を邪魔されないことであり、他にももろもろ思い浮かぶが、要は互いに自分の意思が実現可能な状況に至ることが保証されることか。
そうだとすれば、「平等」など、ほんの少し考えただけでも成立は不可能だ。
そこで、男女は真の意味で「平等」にはなり得ないというのが今日の結論になった。
ある現実を、ありのままに見詰めると云うことが可能かどうかは別に考えなくてはならないが、ある現実によっておこる様々な憂うべき事態の、とりわけそれらを背負う側に立った人の痛みをまず思うことだ。
そこを飛ばして、一般論に解消したり、その事態を「客観視」することが最初に来ることには、強烈な違和感を覚え、その上、そういう思考の在りようは、私には不向きだと、今日、むしむしする暑さの中で、立ち働きながら、そういうことを考えていた。