歴史的に、実際にあったことを、なかったことにするとか、
その反対に、なかったことを、あったことのようにしてしまうとか、
何のためらいもなく、歴史を改竄してしまうのが、日本という国である。
特に、この国にとって、都合の悪い事を、なかったことにしてしまうというのは、
もう、今や当たり前のようになって、それを多くの人達が、
了解し、黙認してしまっているようにさえみえる。
その他にも数多く、日本が加害的な立場で関わった事柄は、たくさんあるが、
そうしたことと、真摯に向き合って、
一つ一つ乗り越えていくという行為を、
日本はやってこなかったと、私は思っている。
さて、そんな中で、一冊の本を図書館で見つけて、読んでいるところだ。
『中国の人と思想⑥ 司馬遷 起死回生を期す』という書名で、
著者は林田慎之助、神戸女子大学の先生である。
といっても、ご自身で書かれた、この本の「あとがき」の日付が、
1983年12月だから、この当時、神戸女子大学教授だったということ。
さらに、この先生の生年が1932年ということだから、
2019年の今、ご存命ならば、とっくに神戸女子大学を退官されて87歳。
ところで「あとがき」の中に、次のような一節があった。
「その帰途、はじめて訪ねた町に、本竜野がある。姫路から姫新線に乗りかえて
三十分ほど入ったところにある、小さな城下町である。三木露風の「赤とんぼ」
の舞台でもあるが、その夕焼けの美しい山路に、三木清の文学碑があった。その
碑面の文句が気に入った。
今日、愛については誰も語っている。誰が怒りについて真剣に語ろうとするの
であろうか。怒りの意味を忘れて、ただ、愛についてのみ語るということは、
今日の人間が無性格であることのしるしである。
切に義人を思う。
義人とは何か。-怒ることを知れる者である。(『人生論ノート』)
司馬遷も義の人であった。義とは、今風にいえば、当為の精神である。人間とし
て、当然なさねばならぬことがあれば、損得の勘定を抜きに、それとかかわってい
く心である。なるほど、怒りの意味を忘れ、ただ愛についてのみを語る無性格な人
間の状況は、三木清が生きた暗い谷間の時代ばかりではなく、今日においてもな
お、そうした事情はいっこうに変わっていないのだ。」
周知のように、司馬遷は、窮地にあった友人の李陵を弁護して、漢の武帝の怒りをかい、投獄の後、死刑宣告を受けたが、あえて、男根を切り取られるという「宮刑」を選び、生き延びた人である。
いったい何のために、屈辱的な「宮刑」を選び取ったのか。それは後世、第一級の中国史として多くの人から賞賛された『史記』の執筆を成就するためだった。
こうして地獄のような経験を経た司馬遷は、ついに目的を達成するが、その晩年について詳細は分からない。
義のためには命も惜しまなかった司馬遷が、歴史書の執筆を貫徹させたこと。
その司馬遷の思想と人生について、情熱を傾けて『司馬遷 起死回生を期す」を執筆
した林田慎之助先生のこと。
さらに同書のあとがきに三木清の『人生論ノート』「怒りについて」の引用があった
こと。
実は三木清の『人生論ノート』は、二か月ほど前に本屋で見つけて読み始め、次々に
発せられる、哲学者三木清の力強い言葉によって、現在のこの国の政治や社会の状況
にふり回されていた自分の心が、徐々に落ち着きを取り戻していたところだった。
そしてもう一つ、私が好きな中島敦が書いた『李陵』という作品が、著者が司馬遷に
惹かれていくきっかけになったことなど、すべてのことが、次々に、私とつながって
いったことに、私自身が驚いている。
私にとって知識の習得とは、そこに関連するいくつものことが、私の中で、見事につ
ながった時、何とも言えない喜びの中で、自分自身の身になっていくことである。
それにしても、こんなわかりやすい体験をしたのは、久しぶりの事だった。